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  <title>プロ野球阪神タイガース選手名鑑</title>
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  <description>阪神タイガースの選手プロフィール球団の情報</description>
  <lastBuildDate>Sat, 20 Mar 2010 14:48:04 GMT</lastBuildDate>
  <language>ja</language>
  <copyright>© Ninja Tools Inc.</copyright>
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    <item>
    <title>球団概要</title>
    <description>
    <![CDATA[阪神タイガース（はんしんタイガース、HANSHIN Tigers）は、日本のプロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつです。<br />
運営法人は阪急阪神東宝グループの系列下である。兵庫県を保護地域とし、同県西宮市にある阪神甲子園球場を専用球場（本拠地）としている。二軍（ウエスタン・リーグ）の本拠地は同市にある阪神鳴尾浜球場である。<br />
<br />
<div>時代に合わせて本拠地球場・応援歌など球団のあり方を変化させてきた読売ジャイアンツなどの他球団に対し、各節で前述した通り、タイガースは伝統を重んじるとして大きな変更を行っていない。</div>
<div>&nbsp;</div>
<div>また、プロ野球最初の公式リーグ戦の1936年春から現在まで戦争による中断を除いた全公式シーズンに参加し、かつ創立当時から親会社が変わっていないのはタイガースのみである。<br />
同様の球団は他に読売ジャイアンツがあるが、アメリカ合衆国遠征のために1936年春のシーズンを欠場している。タイガースのように、非常に長い期間経営母体が変わらずに存続するプロ野球チームというのは、世界的にも極めて少ない。（2006年（平成18年）5月30日から阪神電気鉄道株の株式公開買い付け（TOB）を実施。<br />
6月19日にTOBは成立し、阪神電鉄を子会社化。10月1日に株式交換で完全子会社化し、合併し阪急阪神ホールディングス株式会社なので実際は親会社が変わっているとみてよい。）テレビ中継などでは阪神vs巨人は「伝統の一戦」と紹介される。</div>
<div>&nbsp;</div>
<div>幾つかの特有の伝統行事も持つ。代表的なものとして、タイガースが全選手・監督・コーチをそろえて毎年キャンプイン前の1月に廣田神社（武運長久&rArr;優勝を祈願）に参拝する行事は、球団創立時からの伝統である。また、現在では開幕前の3月に西宮神社（商売繁盛&rArr;球団収益を祈願）に参拝することも伝統行事となっている。</div>]]>
    </description>
    <category>球団概要 </category>
    <link>http://tigershanshin.blog.shinobi.jp/%E7%90%83%E5%9B%A3%E6%A6%82%E8%A6%81%20/%E7%90%83%E5%9B%A3%E6%A6%82%E8%A6%81</link>
    <pubDate>Sat, 20 Mar 2010 14:48:04 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>鳥谷敬</title>
    <description>
    <![CDATA[<font size="3"><strong>鳥谷敬について</strong></font><br />
鳥谷敬（とりたにたかし）<br />
1981年6月26日生まれ。<br />
阪神タイガース所属のプロ野球選手。ポジションは内野手（遊撃手）。<br />
<br />
<a target="_blank" href="http://ranking.with2.net/link.cgi?77465"><img width="150" height="150" border="0" alt="鳥谷敬画像" src="http://imgimgimg.chicappa.jp/img3/toritani_takashi/toritani_takashi.jpg" /></a><br />
<br />
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</script> <br />
<br />
<font size="3"><strong>鳥谷敬プロ入り前</strong></font><br />
3兄弟の長男として生まれる。白梅女子短期大学付属幼稚園に入園、八坂小学校に入学、小作台小学校に転校、羽村第一中学校を卒業した。小学校の時は柔道もやっていた。東村山ジュニアメッツ、小作台少年野球クラブを経て、瑞穂シニアに所属。 聖望学園高では3年夏に遊撃手兼投手として甲子園出場を果たす。初戦となる二回戦の日田林工戦ではリリーフとして登板し、最速143km/hを計測したが、敗退。<br />
早稲田大学人間科学部に進学し、後藤武敏と並んで東京六大学史上最速タイとなる2年春での三冠王に輝き、ラストシーズンの4年秋には2度目の首位打者を獲得し、ベストナインも通算5度選出された。4年春の19四死球は2004年秋のシーズンに立教大学の多幡雄一に更新されるまで六大学記録であった。走攻守揃った大型遊撃手として同期の青木宣親・比嘉寿光・由田慎太郎らとともに中心選手として活躍、チームを4連覇に導いた。大学通算打率.333、11本塁打。早稲田大学卒業時の卒業論文は『打撃フォーム時の動作解析』。<br />
元々は左利きだが、右利きに矯正された。また、小学生のときに柔道をやっていたため右投げである。左打ちなのは、小学生時代途中までは、右打ちだったが、弁当を食べる時、箸を左手で持って食べていたのをみた野球チームの監督が「おまえは左で打ったほうがいい」といわれたのがきっかけである。 。<br />
<br />
<font size="3"><strong>鳥谷敬プロ入り後</strong></font><br />
<strong>2004年</strong><br />
2003年のドラフト自由獲得枠で阪神タイガースに入団。キャンプ・オープン戦から注目され、2004年開幕戦で7番ショートでスタメンに選ばれる。4月 2日、巨人との開幕戦（東京ドーム）の8回、前田幸長からレフト前にプロ初安打を放ったが、開幕6試合目から藤本敦士がショートスタメンとなり藤本が五輪期間でチームを離れるまで主にサードで出場した。五輪期間後の藤本の不振により再びショートスタメンに返り咲き、その年は最後までショートスタメンで出場した。 <br />
<br />
<strong>2005年</strong><br />
開幕スタメンショートを与えられ正遊撃手の藤本がセカンドにうつされた。主に二番を打っていた藤本の打撃不振によりセ・パ交流戦以降は2番に定着して全試合出場を果たし、サヨナラ本塁打を2本放つなど優勝に貢献。4月27日の中日戦（甲子園）では、味方投手の橋本健太郎がプロ初勝利を挙げたにも関わらず、ウイニングボールをスタンドに投げ込んでしまった。それもあってか同年9月19日甲子園での中日戦においては、相手投手の佐藤充のプロ初安打ボールを中日ベンチへ返している。この年のオフ、高校時代の1年先輩で野球部マネージャーだった女性と結婚していたことが報道された。 <br />
<br />
<strong>2006年</strong><br />
開幕スタメンショートを与えられ正遊撃手の藤本がセカンドにうつされた。主に二番を打っていた藤本の打撃不振によりセ・パ交流戦以降は2番に定着して全試合出場を果たし、サヨナラ本塁打を2本放つなど優勝に貢献。4月27日の中日戦（甲子園）では、味方投手の橋本健太郎がプロ初勝利を挙げたにも関わらず、ウイニングボールをスタンドに投げ込んでしまった。それもあってか同年9月19日甲子園での中日戦においては、相手投手の佐藤充のプロ初安打ボールを中日ベンチへ返している。この年のオフ、高校時代の1年先輩で野球部マネージャーだった女性と結婚していたことが報道された。 <br />
<br />
<strong>2007年</strong><br />
赤星憲広に代わって主に1番を打った。しかし、好不調の差が激しく、打撃成績は前年よりも落ち込んだ。5月24日の中日戦で、遊撃手としての連続フルイニング出場試合数を340としプロ野球記録を樹立。9月28日の398試合まで記録を伸ばしたが、その数日前に受けていた死球の影響で、翌29日に途中交代した。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>鳥谷敬エピソード</strong></font><br />
昔好きだったアニメはドラゴンボール。本人曰く「主人公が強くてカッコよかった」。<br />
兄弟3人ともイニシャルが「T・T」である。<br />
宝物として「メジャーリーグ・スーパープレー集」のビデオがある。早稲田大学野球部で同期のメンバーから借りっぱなしだったが、入団記念にプレゼントされた。<br />
大学時代、後輩からは「筋肉ファンタジー」と呼ばれていた。また、スポーツ科学科でサッカーの授業があり、リフティングを100回以上続けると「優」の成績がもらえるところ、鳥谷敬は200回以上延々と続けた。<br />
視力は両眼で0.7と悪いため試合中はコンタクトレンズを使用していたが、母校聖望学園の岡本監督の勧めで、2006年1月から、東京都内にある近視治療専門クリニックで近視改善治療を受けている。<br />
阪神では久々の生え抜きのスター候補とあって、マスコミに登場する頻度は高いが、担当記者は「口数が少なく大きいことも言わないので、原稿にしにくい」ことが悩みだという。<br />
安田大サーカスの安田団長に似ている、とよく言われているが、鳥谷敬は少々困惑しているという。本人は「眼鏡をかければヨン様、眼鏡を外せば大沢たかお」と言っていた（赤星談）。<br />
同僚の赤星や秀太と銀座のクラブのパーティーに参加した時、赤星がとある大物俳優に「腕相撲勝負をしよう」と絡まれ、怯んだ赤星に「僕がやります」と助け舟を出し、赤星に代わって腕相撲をしてその俳優に勝利した（ジャイケルマクソンにて陣内智則談）。<br />
同僚の葛城育郎や藤本敦士と仲が良く。藤本がオールスターゲームでサヨナラ打を放った時、ベンチで飛び上がって喜ぶ鳥谷の姿がテレビに映し出された。]]>
    </description>
    <category>鳥谷敬</category>
    <link>http://tigershanshin.blog.shinobi.jp/%E9%B3%A5%E8%B0%B7%E6%95%AC/%E9%B3%A5%E8%B0%B7%E6%95%AC</link>
    <pubDate>Wed, 16 Sep 2009 15:30:44 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">tigershanshin.blog.shinobi.jp://entry/6</guid>
  </item>
    <item>
    <title>岩田稔</title>
    <description>
    <![CDATA[<font size="3"><strong>岩田稔について</strong></font><br />
岩田稔（いわたみのる）<br /> 1983年10月31日生まれ。<br /> 大阪府守口市出身。<br /> 阪神タイガースに所属するプロ野球選手（投手）。<br />
<br />
<a target="_blank" href="http://ranking.with2.net/link.cgi?77465"><img width="150" height="150" border="0" alt="岩田稔画像" src="http://imgimgimg.chicappa.jp/img3/iwata_minoru/iwata_minoru.jpg" /></a><br />
<br />
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<br />
<font size="3"><strong>岩田稔プロ入り前</strong></font><br />
大阪桐蔭高時代には2年秋からエースとなり、秋の府大会で準優勝。近畿大会でもベスト8に進出するが、同年の冬、風邪を引いた際のウイルス感染が元で1型糖尿病を発症。3年時には中村剛也・西岡剛らが活躍するチームでエースナンバーを背負っていたが、腰の故障で登板機会はなかった。進路は社会人野球のチームに決まりかけたものの、病気が分かってから取り消されたため、指定校推薦で関西大学に入学。<br />
大学でも故障に悩まされ通算成績は6勝10敗だったが、最速151km/hの直球と縦に落ちるカーブを軸にカットボール、チェンジアップなどの多彩な変化球が評価され、2005年の大学・社会人ドラフトで希望入団枠で阪神に指名され入団。大学、阪神の大先輩である村山実を目標にしており、入団会見では「（背番号が村山の11より10多い21であることから）10倍頑張れということだと思います」と語った。<br />
<br />
<font size="3"><strong>岩田稔プロ入り後</strong></font><br />
<strong>2006-2007年</strong><br />
一軍登板はあったものの、あと一歩で勝利を逃した。2007年6月21日、中学校の同級生の女性と結婚したことを発表。同年11月に第一子が誕生した。 <br />
<br />
<strong>2008年</strong><br />
春季キャンプ・オープン戦の好調が認められ開幕ローテーション入り、3月29日の開幕カード2戦目横浜ベイスターズ戦の先発に抜擢され、プロ入り初勝利を挙げた。4月26日にはプロ入り初完投勝利も記録。球の威力は新人時代から元々高い評価を受けていたがその反面制球力が課題だった。しかし、同年はそれを克服し大ブレイク。シーズン終盤は成績を落としたが、年間通してローテーションを守り抜き、10勝を挙げる活躍をした。オフには秋季キャンプからフォームを意識している杉内俊哉に志願して、合同自主トレをすることになった。<br />
<br />
<font size="3"><strong>岩田稔エピソード</strong></font><br />
1型糖尿病のため1日4回のインスリン注射は欠かせないが、アマチュア時代に糖尿病を発症しつつもプロで活躍したビル・ガリクソンや、8歳で1型糖尿病を発症しながらエアロビックの世界チャンピオンになった大村詠一に岩田稔自身が勇気づけられたことから「自分が頑張ることで、同じように（1型）糖尿病と戦っている人たちを勇気づけていきたい」と話す。]]>
    </description>
    <category>岩田稔</category>
    <link>http://tigershanshin.blog.shinobi.jp/%E5%B2%A9%E7%94%B0%E7%A8%94/%E5%B2%A9%E7%94%B0%E7%A8%94</link>
    <pubDate>Fri, 11 Sep 2009 16:56:17 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">tigershanshin.blog.shinobi.jp://entry/5</guid>
  </item>
    <item>
    <title>新井貴浩</title>
    <description>
    <![CDATA[<font size="3"><strong>新井貴浩について</strong></font><br />
新井貴浩（あらいたかひろ）<br />
1977年1月30日生まれ。<br />
阪神タイガースに所属するプロ野球選手（内野手）<br />
中日ドラゴンズに所属する新井良太は実弟。<br />
<br />
<a href="http://ranking.with2.net/link.cgi?77465" target="_blank"><img width="150" height="150" border="0" src="http://imgimgimg.chicappa.jp/img3/arai_takahiro/arai_takahiro.jpg" alt="新井貴浩画像" /></a><br />
<br />
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<br />
<font size="3"><strong>新井貴浩プロ入り前</strong></font><br />
県立広島工業高校では3年夏の県大会でベスト16。その後駒澤大学に入学し、4年時に日米大学野球で打率5割を記録。同年秋は東都大学リーグ打点王とベストナインを獲得。<br />
大学の1年先輩である高橋尚成（巨人）は、当時の新井貴浩を「打てないし、守れないが、足はそこそこ速く、素直で先輩の受けはとても良かった」と話している。<br />
1998年のドラフトで広島東洋カープに6位で指名される。これは大学の先輩である野村謙二郎の強い推薦があったからといわれるが、大学通算本塁打がわずか2本で、守備にも課題があった新井貴浩の指名は、周囲からは驚きをもって受け止められた。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>新井貴浩プロ入り後</strong></font><br />
<strong>広島東洋カープ時代</strong><br />
入団後は「将来の4番候補」として期待され、新井貴浩自身もその意気込みを「空に向かって打つ」と宣言する。2年目の2000年には16本、翌年は18本と2桁本塁打をマークし、2002年は本塁打28本と初の20本越えを果たす。オールスターにも初めて出場。この時新井貴浩に目をかけていた広島のオーナー松田耕平（当時）に見送られたが、その直後に松田が他界した。新井貴浩は第2戦で本塁打を放ち、松田への手向けとした。<br />
2003年、前年オフに阪神タイガースに移籍した金本知憲の後を継ぐ4番に開幕から座るが、地元出身のスラッガーという重圧、また精神的主柱でもあった金本の不在は大きく、不振に陥って後半戦からはアンディ・シーツに4番を譲り、前年28本の本塁打も19本に落ち込み、打率も.236と低迷した。2004 年も極度の打撃不振に陥り、本塁打は僅かに10本、打点も36と低迷。構えた際のグリップの位置が低く、さらに上下するという悪フォームで結果を恐れるあまり、ボールを待ちすぎ、追い込まれて打ち取られるパターンを繰り返した。この年12月に結婚、披露宴の席で山本浩二に叱咤激励された。<br />
2005年シーズン、内田順三コーチとともに、グリップを高くし足を上げる、また積極的に打ちに行く打撃スタイルへ改造する。これが成功し、43本塁打で本塁打王を獲得、更に初の打率3割（.305）を記録する。6月28日の対阪神戦ではリチャード・ランスに並ぶ球団タイ記録の6試合連続本塁打を放つなど自身最高の成績を残す。しかしこの翌日は無安打に封じ込まれてしまい、惜しくもランディ・バースと王貞治が持つ日本記録（7試合）には届かなかった。また、山本浩二の持つ球団年間本塁打記録（44本）を破るのではないかと期待されたが、1本差で届かなかった。<br />
2006年1月、これまで金本や佐々岡真司らと共に行っていた鹿児島・最福寺での護摩行合宿を単独で3泊4日かけて行った。2003年に4番として失敗していることもあり、新井貴浩はこのシーズンこそ正念場と位置づけていた。前年のタイトル獲得が評価され、WBC日本代表にも選ばれる。しかし、出場機会はごくわずかであった。シーズンでは、マーティ・レオ・ブラウン監督が掲げているケースバッティングを心がけたのが実を結び、本塁打数は25本と減少したものの、本塁打が43本ながら 94打点に終わった前シーズンに対し、ランナーを置いての打撃が向上して100打点に到達した。一方、これまでのシーズン同様、積極的に打ちに行く打撃スタイルゆえか、四球数が少なく選球眼の悪さを指摘された。<br />
2007年シーズンでは自己記録を更新する55の四球を選び、28本塁打を放ち打点も102を記録した。しかしチャンスに強くなったものの、ケースバッティングに徹しすぎたせいか、今度は新井貴浩の魅力であった豪快な打撃が損なわれているという指摘もなされた。守備では三塁手の守備率でリーグトップ、守備機会も三塁手トップとなった。シーズン終了後、北京オリンピックアジア予選兼アジア選手権に4番一塁として出場し、日本チームの五輪出場権獲得に貢献。また、この年オフにチームの投打の柱だった黒田博樹と共にFAを宣言した。阪神のほかに福岡ソフトバンクなどが獲得に乗り出したが、新井貴浩にとって絶対的な存在の金本がいる阪神が圧倒的に有利な状況にあったため、他球団は獲得を見送り、新井貴浩も阪神と2度の交渉を経て入団の意志を表明した。アジア野球選手権大会終了後に正式入団発表をし、12月11日付でFA宣言選手契約締結合意が公示された（なお、後に人的補償として阪神から赤松真人が移籍した）。  <br />
<br />
<strong>阪神タイガース時代</strong><br />
2008年4月12日、対横浜戦(横浜スタジアム)5回戦の第一打席に寺原隼人からプロ入り通算1000本安打を達成。同試合では広島時代から慕っている同僚の金本知憲も同じ寺原からプロ入り通算2000本安打を達成している。10月29日に栗原健太とともに、新井貴浩自身初となるゴールデングラブ賞を受賞した（受賞者が2人なのは1993年の今中慎二と桑田真澄以来、15年ぶり）。<br /><br />
<font size="3"><strong>新井貴浩エピソード</strong></font><br />
チーム事情で一時ライトやファーストを守ったこともあるが、基本的にはサードである。過去に失策王になったシーズンもあって「守備が粗い」と評され、名前とかけて「粗いさん」や「粗ゐ」などと一部のファンから呼ばれている。山本浩二も監督時代、「新井は守備が名前と同じで『あらい』」とネタにしていた。<br />
長兄は新井と同じ広島工業出身で高津臣吾と同期の4番打者であり、中日ドラゴンズの新井良太は実弟という野球一家。2006年9月10日の対中日戦では良太と顔合わせをした。両チームで実の兄弟同士が同じグランドに立つのは、1998年7月16日の山田勉（広島）・山田洋（中日）兄弟以来8年ぶりのことであった。また、2007年7月31日の試合では延長10回に良太が決勝タイムリーを放ったのをサードの守備位置から見ていたが、翌8月1日は9回裏にベンチの良太の前でサヨナラタイムリーを放っている。<br />
体の大きさに似合わず温厚で優しい性格だが、一方で大ざっぱらしく、数々のエピソードを残している。<br />
黒田博樹にバッグの中に消火器を入れられながら、ホテルに帰るまでそのことに気づかなかった。<br />
最初に買った自家用車を弟・良太に無断で持ち帰られ、それを知らないまま自動車税を納付していた。<br />
2006年、インボイスSEIBUドームでの試合前、軽食のうどんを食べる際、関西風のだしと関東風のだしが用意されていたのだが、広島生まれで大学時代は東京暮らしだった新井貴浩はどちらを選ぶか迷い、結局「二つを混ぜてもらっていいですか」と頼んだ。<br />
2006年シーズンオフには、元コーチの大下剛史らとの食事の席で、新井貴浩が以前大下に送っていた焼酎を、大下がその場で開けて飲もうとした際、焼酎の紹介が書かれた紙を読んでみろと大下に言われたが、読むべき所を勘違いして「さつまいも」と発言してしまい、その場にいた全員が大爆笑することとなった。<br />
同じく阪神のチームメイトである金本知憲を兄貴分として長きに渡って慕っている。金本の広島在籍時からの2人のやりとりは阪神での金本と藤本敦士のやりとり同様名物化していた。新井貴浩自身の阪神入団が内定した際も、阪神移籍を決めた理由として「金本さんの存在が大きかった」とコメントするほど互いに親密な関係にある。阪神ファンの間で定着している「アニキ」という愛称で最初に金本を呼んだのは新井貴浩だと言われている。ただ、新井貴浩自身は現在は金本のことを「アニキ」ではなく「会長」と呼んでいる（金本談）。現在もオフには同じジムで自主トレに励む。<br />
若手のころはとにかく先輩からオモチャにされ、本塁打を打った金本に張り手を食らったり、選手会ゴルフの始球式で打球方向に立たされたりするなど枚挙にいとまがない。<br />
夫人は乙女塾6期生出身の元アイドル・大橋裕美子で「もし男に生まれていたらまじめに野球をやる」と普段から語っていたほどの野球ファンである。なお、新井貴浩は結婚するまでは金本と同様に、選手名鑑の「好きなタイプの女性」欄に、チームメートであった西山秀二の夫人の名を書いていた。<br />
藤崎マーケットのラララライ体操の物真似が得意で、広島時代に「アライアライ」と少しアレンジして披露したらチームメートに大受けだったという。<br />
2006年11月23日のファン感謝デーで行われたベース投げコンテストで13m60cmを記録し見事優勝。コンテストの生みの親であるブラウン監督は「彼は1年間、このコンテストのことばかり考えていたのだろう」とコメントした。 在日韓国人であったが、現在は日本に帰化している。帰化前の本名は朴貴浩。]]>
    </description>
    <category>新井貴浩</category>
    <link>http://tigershanshin.blog.shinobi.jp/%E6%96%B0%E4%BA%95%E8%B2%B4%E6%B5%A9/%E6%96%B0%E4%BA%95%E8%B2%B4%E6%B5%A9</link>
    <pubDate>Thu, 03 Sep 2009 15:00:47 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>金本知憲</title>
    <description>
    <![CDATA[<font size="3"><strong>金本知憲について</strong></font><br />
金本知憲（かねもとともあき）<br />
1968年4月3日生まれ。<br />
阪神タイガースに所属するプロ野球選手（外野手）。<br />
ファンやマスコミからはアニキ（兄貴）、平成の鉄人、西の番長などと呼ばれる。友人からの愛称はかねもっちゃん、カネ。<br />
<br />
<a target="_blank" href="http://ranking.with2.net/link.cgi?77465"><img width="150" height="150" border="0" alt="金本知憲画像" src="http://imgimgimg.chicappa.jp/img3/kanemoto_tomoaki/kanemoto_tomoaki.jpg" /></a><br />
<br />
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<br />
<font size="3"><strong>金本知憲プロ入り前</strong></font><br />
小学校4年のときリトルリーグ・広島中央リトルで本格的に野球を始める。しかし厳しい練習についていくことが出来ず1年で退部。その後は町内会のソフトボールや中学校の野球部で軟式野球を続けた。広島・広陵高等学校に進学し硬式野球部入部。外野手兼三塁手兼投手として2年からクリーンアップに座り、金本知憲は高校通算20本塁打の活躍をするが、広陵高校の低迷期、特に投手力が弱い時代で甲子園出場は叶わなかった。西村龍次は同期入部だったが、すぐに寒川高校に転校した。金本知憲の1学年上が桑田真澄・清原和博のKKコンビで、PL学園の黄金期の桑田・清原は、当時多くの高校球児にとって憧れの存在であり、金本知憲も広陵入学前の春休みに甲子園に清原を見に行くなど、高校・大学時代は清原マニアであったことを自認している。また、清原自身とは現在は深い交友関係がある。<br />
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その後、東京の中央大学の野球部セレクション受験するが不合格（本当は法政大学に進学を希望していた）、浪人時代にヤクルトの入団テストを受けたがまたも不合格。失意中、知人から当時は全くの無名だった東北福祉大学を紹介され、野球推薦ではなく一般受験で合格。恩師として名前を挙げる故・伊藤義博監督の指導でその才能を開花させた。1年からレギュラーを獲得し佐々木主浩（後に横浜大洋入団）、大塚孝二（後に西武入団）、矢野輝弘（後に中日入団）、斎藤隆（佐々木と同じく後に横浜大洋入団）、浜名千広（後にダイエー入団）らと共に活躍。1988年第37回大学選手権では決勝で近畿大学に惜しくも逆転負けを喫するが、準優勝に貢献した。<br />
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以降、主力として4年連続で大学選手権に出場、翌1989年の第38回大会では連続優勝した近畿大学に再び3回戦で敗れ、第39回大会でも決勝戦まで勝ち残ったものの小池秀郎、高津臣吾、川尻哲郎ら好投手を擁する亜細亜大学に敗れてしまう。しかし、4年次の第40回大会（1991年）では3度目の決勝戦進出を果たし、関西大学を相手に延長17回の熱戦を繰り広げ、ついに念願の初優勝。左手首のはく離骨折という大怪我を抱えながら勝ち越しの2点タイムリーを放った金本は、東北福祉大初優勝の立役者となった。<br />
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同年、第20回日米大学野球選手権では日本代表に選出され、チームの勝利に貢献。この時、後にチームメイトとなる桧山進次郎と同部屋になり、「人に話せないようなことを色々した」（本人談）らしい。この時の縁がきっかけで、阪神入団後、雑誌で2人の対談が行われた。なお、この部屋で洗濯係をしていたのが後に中日に入団し、その後ソフトバンクに移籍した鳥越裕介であるが、鳥越は「金本さんにめちゃくちゃいじめられた」と後に語っている。 <br />
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<font size="3"><strong>金本知憲広島東洋カープ時代</strong></font><br />
1991年のドラフトで斉藤肇の外れ4位で地元の広島東洋カープに入団。入団後の2年間は芽が出ず、年下の前田智徳、江藤智らに追い抜かれ当時の打撃コーチからも、ころがして足を活かせと言われる程、非力だった。外野の守備に関しても地面に向かって投げる悪癖があり『モグラ殺し』のあだ名を付けられた。本人曰く「クビを覚悟していた」。それらの悔しさから筋トレを本格的に取り入れ、長い年月をかけて肉体改造を行う。山本一義コーチと出会ったことも転機となり、1994年後半から頭角を現し17本塁打を放つなどレギュラーに定着。1995年にベストナインを獲得した。以降、1996年に初の3割をマークすると、1997年には2年連続3割、そして初の30本塁打を達成、1998年には不振に陥るが、1999年には初の全試合出場、そして4月24日にはサイクルヒットを達成するなど復活、主に5番打者として活躍していた。 2000年、それまで不動の4番打者だった江藤が巨人へ移籍した事により4番に抜擢され、史上7人目のトリプルスリーを達成、2001年には39年ぶりに毒島章一の記録を大きく更新する1002打席連続無併殺打の日本記録を樹立、同年の128四球は個人年間四球の歴代5位（これ以前は個人年間四球記録は王貞治が10位までを独占していた）と、主砲として大活躍、広島にとってなくてはならない存在となる。 <br />
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<strong>FA権行使を巡る苦悩と決断</strong><br />
2002年オフ、FA権の行使に最後まで悩んだ金本知憲は、球団幹部に「今季は成績が悪かったので年俸は1000万円減で構わないが、FAの再契約金を100万円でいいから出してほしい」と相談した。しかし広島球団の財政事情が厳しい事もあって、FA権行使による再契約金高騰の前例が作られる事を懸念し、FA権を行使した選手との再契約を認めず、FA権行使を大きく後押ししたと言われる。その後、阪神へ移籍。なお、星野は後に「非公式に阪神よりも高い年俸でオファーをしていた球団は他にもあったのに、金本知憲はよくウチに来てくれた」と語り、他球団からのオファーがあったことをにおわせた。  <br />
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<font size="3"><strong>金本知憲阪神タイガース時代</strong></font><br />
阪神の球団改革の一端として移籍した金本知憲は2003年は開幕から3番打者として定着。2番打者・赤星憲広の盗塁王獲得に貢献すると共に、自身も主軸として活躍した。また、日本シリーズでは4本塁打、3試合連続本塁打、1試合2本塁打と3つのシリーズタイ記録を達成したが、チームは日本一に届かなかった。<br />
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2004年、星野の後任として就任した岡田監督の意向で、開幕から4番として起用されると、長打を量産するようになる。7月29日の中日戦において左手首に死球を受け軟骨損傷を負いながらも、自分の物より軽い久慈照嘉のバットを借りて出場を続け、8月1日には連続試合フルイニング出場の日本新記録を樹立すると、打率、本塁打、打点の3部門で自己新記録（本塁打は1999年と同数）を達成、初タイトルとなる打点王を獲得する。<br />
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2005年6月10日日本ハム戦にて「全球団から本塁打」記録を達成。これは史上4人目の記録だが、過去の3人はいずれもセ・パ各4球団以上を渡り歩いて記録している。金本はこの年から導入された交流戦のおかげで、広島と阪神の2球団しか所属していないにもかかわらずこの記録を達成することができた。6月 28日には米子市民球場での広島戦で本塁打を放ち、現役選手では最多の32球場でアーチをかけた（日本記録は山内一弘の39球場、2007年に田中幸雄が 33球場で本塁打を放ったため現役1位の記録は一旦譲ったが、田中幸雄は同年限りで引退し再び現役1位となった）。さらに、8月11日の中日戦では 1000試合連続出場、8月25日の広島戦では1000得点、9月9日の広島戦で1000打点を達成すると、10月4日には40本塁打を達成。1986年のバース以来、日本人選手では1985年の掛布雅之以来の大台で、甲子園のラッキーゾーン撤廃後は初めてのことであった。チームも優勝し、打率、本塁打、打点の3部門で前年をさらに上回る記録を達成、MVPにも選ばれた。<br />
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2006年4月9日の横浜戦で、カル・リプケンの記録を抜く、&quot;904試合連続フルイニング出場&quot;の世界新記録を達成した。この記録は現在も継続中である（ちなみに連続イニング出場数では3月31日にリプケンの8243イニング連続出場を更新）。更に、同じカード・会場の同年8月15日の試合で1000試合に伸ばした。<br />
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2007年は 31本塁打95打点を記録したものの低打率にあえぎ、打率.265という成績に終わった。この年の阪神はチーム打率が12球団ワーストで得点も12球団中 11位であったため、主砲である金本知憲の不振は殊更目立ち、（広島時代から言われていたことだが）イージーミスが目立つ守備や、走塁面が目に見えて衰えていること、シーズン中に左膝半月板損傷という大怪我をしたにもかかわらず、2004年同様強行出場を続けたものの成績は振るわなかったことから、「記録のために出場している」といった非難に加えて「出場し続けることによるチームへの弊害（代走、守備固めなどが送れず、若手選手の出場機会を奪う、など）」や「限界説」も囁かれた。なお、故障した左膝はシーズン終了後の10月に人生初という手術を受ける。<br />
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2008年、手術した左膝のリハビリテーション優先のため1月後半からアメリカに滞在し、2月後半の安芸キャンプからチームに合流。2000本安打まで残り13本、400本塁打まで残り6本でシーズン開幕。4月6日に1999本目の安打を記録して以来3試合19打席無安打だったが、4月12日の横浜戦にて史上37人目の通算2000本安打を達成。また、広島からFA移籍したばかりの新井貴浩も1000本安打を達成した。5月13日の広島戦でプロ入り通算 400本塁打を達成。同時に阪神(達成時点の所属球団)では初の400本塁打達成選手となった。<br />
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2007年の推定年俸は、5億5000万円となり日本人選手としてプロ野球界トップとなった。<br />
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また、右投げ左打ちの打者としては、日本プロ野球最多のホームランを放っている。 <br />
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<font size="3"><strong>金本知憲エピソード</strong></font><br />
少年時代に博成（ひろなり）から知憲に改名している。<br />
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所属していたリトルリーグのチーム、広島中央リトルに野村弘樹（元横浜ベイスターズ）と元お笑いタレントの山本圭一（元極楽とんぼ）がいた。山本の実家には当時の写真が保管されている。<br />
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ヤクルトの高津臣吾は、同期で高校時代のライバルチーム県立広島工業の投手。練習試合も含め何度か対戦があるが、高津の方が控えで直接対決は無い。金本知憲は広島時代、高津と一緒に飲んだりする事があった。<br />
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ヘッドスピードは155キロを誇り、「振り遅れているのに引っ張りの打球が打てる」というタイプの選手である。<br />
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肉体年齢は25歳前後。年中筋肉トレーニングに励み、体脂肪率は8～9％を維持している。<br />
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連続フルイニング出場を続けていることから、「怪我をしない」といったイメージを持たれているが、実際はシーズン中に骨折をしていることもあり、負傷したまま試合に出ていることが多い。<br />
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自らを「ストイックなタイプではない」と評す。ビールは水のように飲む酒豪で、好物の芋焼酎「森伊蔵」の酒量もさほど減らず、ヘビースモーカーで禁煙もすっかり諦めたという（しかし2007年より再び禁煙に挑戦している。2008年5月13日、富山市民球場アルペンスタジアムで行われた対広島戦5回裏終了時にベンチ内の喫煙所で喫煙していた。）。しかしサプリメントや鍼灸、上記の猛トレーニングなどによる体調管理が肉体を支えている（ちなみにアンチエイジング治療も受けている）。<br />
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タバコ問題首都圏協議会によって行われる「タバコやめてネ」コンテスト（2006年）において、禁煙してほしい有名人の中で1位の常連である和田アキ子以上の得票を得て1位にランクインした。<br />
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阪神移籍時に過去の阪神の背番号6番を付けていた藤田平、和田豊の背番号を引き継げて嬉しいと話し、阪神ファンの心を掴んだ（しかし金本知憲本人は本当は5番を付けたかったと話しており、このとき阪神への移籍が取り沙汰されていた中村紀洋のため6番にしたという）。<br />
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ランナーがいる場面ではよく敬遠の対象となる。また次打者に対して全幅の信頼を示しており、シーズン決起集会で2003年、濱中に「俺は四球や繋ぐバッティングしかしない」「打てなかった時だけ俺が決める」2005年は今岡に「今年はお前が打点王を取れ」などと声を掛けた。<br />
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これほどまでに出場に拘る姿勢は「カープ時代に試合前の練習中、当時ドラゴンズの監督であった星野とカープの監督であった達川の世間話をたまたま耳にしたことがきっかけになっている」と星野自身が発言している。<br />
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2004年に左手首を故障した際は、「この時だけは記録のために出続けた」とシーズン後語っている（しかし、成績自体は負傷前から上昇している）。<br />
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後輩選手に対して苦言を呈する事はあまりないが、2007年7月8日中日戦で1アウト満塁から金本のヒットで生還しなかった二塁ランナーの鳥谷敬に対し「あのヒットで1人しか還ってこれないなんてもったいない」「足の速い若い選手が緊張感とか集中力がないのかなと思う」と叱咤し、翌日のスポーツ紙各紙では大きく取り上げられた。<br />
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1999年オフより、鹿児島市の最福寺で護摩行をするのが恒例。火柱のすぐそばで不動真言を唱える。<br />
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守備に関しては大きな特徴はなくスローイング、守備率、守備範囲ともに左翼手として平均前後だが、グラブ捌きやクッションボールの処理が粗末なシーンが見られることが多い。また、レフトしか守れないこと、自身の記録がかかっているために守備固めを送れないことから、「若手の出場機会を減らしている」とも言われる。<br />
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FA移籍するにあたって、かつて広島から巨人にFA移籍した川口和久や江藤智が広島市民球場で激しく野次られるのを見ていたため、自分も広島市民球場での試合では野次られるのではないかと恐れていたが、阪神移籍後の広島市民球場での初の試合では、逆に声援がおこり、安堵したと語っている。<br />
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金本知憲が阪神に移籍する以前に阪神の監督をしていた野村克也（現楽天監督）の著書内で、「金本知憲の獲得でタイガースは大きく変わった」「今のプロ野球界で本当にチームリーダーと呼べる存在なのは金本知憲だけ」と高い評価を受けている。<br />
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広島時代から東京ドームはよく本塁打を放っている。それは阪神でも変わらず、阪神移籍後初の本塁打、250号はいずれも東京ドームでだった。<br />
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ファンやマスコミの間で「アニキ」の愛称で親しまれるが、実生活では4人兄弟の末っ子である。<br />
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公私混同を非常に嫌がるタイプであり、2001年の結婚時も夫人を写さないことなどを条件に取材制限をしたことがある（但し一度週刊誌に撮られて同誌に公開されたことがある）。<br />
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明るく、チームのムードを大事にする性格で、多くのチームメイトにいたずらをすることでも有名。和田豊コーチによると、「調子の良さに比例していたずらも増える」とのこと。そのいたずらの矛先は、2006年までヘッドコーチであった平田勝男にまで向けられた事があったらしい。またインタビューでのジョークも度々行う。連続試合フルイニング出場の世界新記録の時、「セレモニーを見て、『オレ引退するのか?』と思った」と発言している。<br />
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インターネットなどで一時「金本は後輩とご飯を食べに行く時は割り勘にするほどケチである」という噂が流れた。しかし、2004年から打ったホームランの本数に応じて自費で熱海の温泉旅館への家族旅行招待などのプレゼント企画を行っている。なお、2007年からは虎バン主義の企画で、阪神甲子園球場で予定されている公式戦での本塁打を1本打つごとにハワイ家族旅行をプレゼントしている。<br />
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以前の応援歌の替え歌として「メシは割り勘金本リボ払いそれ行け偽善者金本ケチだ金本」という歌詞がある。これを赤星憲広がテレビで披露したこともある。この時一緒に出演していた金本は「何人かで一緒に食事に行ったときに、冗談で『みんなあと○百円ずつ』と言ったら、真に受けられてしまって本当にみんな数百円ずつ払ってきて、それからケチと言われるようになった」という主旨の弁解をしていた。収録終了後、金本知憲は歌を披露した赤星と藤本を正座させ叱ったとされる。<br />
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2006年11月15日に兵庫県から兵庫県スポーツ優秀選手特別賞を受賞している。<br />
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ファイテンとアドバイザリー契約を結んでいる。また2006年12月から日産自動車のADバンの雑誌広告、ラジオCMに出演している。<br />
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男性タレントの島田紳助と仲が良いことが2005年のFNSの日で明らかになった。島田は桧山進次郎などの阪神の選手達との交友歴が長い。<br />
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阪神甲子園球場では「金本兄貴のスタミナハラミ丼」という弁当が販売されている。金本知憲が東北福祉大学時代によく食べていたという弁当を本人の協力をもとに再現したものだが、大学野球部のルームメイトであった大塚光二からは「食べているのを見たことない。アイツそんな金あったのか？」と言われている。<br />
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自身が通っているスポーツジム「アスリート」の金本専用ベルトには、広島時代の背番号10と共に名前が書いてあり、名前の上のフリガナが「ヒクソン・グレイシー」となっている。<br />
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2000本安打にリーチをかけてから、2008年4月12日の対横浜戦で、2000本目の安打を放つまで、18打席連続無安打であった。これは2000本安打にリーチをかけてからの連続無安打記録の歴代最長である。<br />
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広島時代の1995年8月29日、阪神甲子園球場での阪神戦で、クールボーのホームラン性の打球を追いかけている際、何もないところで転倒し骨折したことがある（その打球はホームランになっている）。]]>
    </description>
    <category>金本知憲</category>
    <link>http://tigershanshin.blog.shinobi.jp/%E9%87%91%E6%9C%AC%E7%9F%A5%E6%86%B2/%E9%87%91%E6%9C%AC%E7%9F%A5%E6%86%B2</link>
    <pubDate>Sun, 09 Aug 2009 08:57:07 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>赤星憲広</title>
    <description>
    <![CDATA[<font size="3"><strong>赤星憲広について</strong></font><br />
赤星憲広（あかほしのりひろ）<br />
1976年4月10日生まれ。<br />
愛知県刈谷市出身の阪神タイガース所属のプロ野球選手。ポジションは外野手（中堅手）。<br />
俊足を生かした盗塁技術や広い守備範囲で高い評価を得ている。<br />
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<a href="http://ranking.with2.net/link.cgi?77465" target="_blank"><img width="150" height="150" border="0" src="http://imgimgimg.chicappa.jp/img3/akahoshi_norihiro/akahoshi_norihiro.jpg" alt="赤星憲広画像" /></a><br />
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<font size="3"><strong>赤星憲広プロ入り前</strong></font><br />
小学校時代はサッカーをしており、愛知県代表のフォワードに選ばれたこともある。野球は中日ドラゴンズのファンで、特に星野仙一の大ファンだった。赤星憲広が野球を始めたのは小学6年の時で、地元の少年野球チームのコーチをしていた父親の影響だった。当時から身体が小さく、中学時代に野球を止めようかと考えたこともあったが、足を活かすために左打ちに変えて内野安打が増えた。<br />
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大府高時代は1番を打ち、赤星憲広が出塁すると2番打者はバットを振らずに二盗、三盗が成功するのを待ち、その後スクイズを行うという独特の戦法で1993年春・1994年春と2度のセンバツ出場を果たした（ともに初戦敗退）。2年時には二塁手として出場するが逆転2点エラー、3年時にはポジションを遊撃手に移すも初回にタイムリーエラーとなる悪送球と、2試合で3失策を記録してしまった。高校通算16本塁打。<br />
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亜細亜大学に進学後、2年次の明治神宮野球大会では三塁手として出場したが、ここでもタイムリーエラーを犯し、チームも0対1で敗北する。3年より外野手に転向し、4年秋には3試合連続本塁打を記録するなどパンチ力も身に付け、明治神宮大会で優勝する。ベストナイン3回、野村謙二郎の52盗塁に次ぐ東都大学史上2位となる48盗塁を記録。大学時代、4年の時に駅のホームから転落した女性を救助したというエピソードもある。<br />
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卒業後はJR東日本に入社。同社で車掌として勤務する傍ら野球部に所属。都市対抗で東京ドームの白い屋根の中にボールを見失い、平凡なフライを三塁打にしてしまったことががきっかけでチームが大敗したこともあった。<br />
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その後シドニーオリンピック野球日本代表に選出される。プロのメンバーが揃っていたため中心選手ではなかったが、投手の牽制の癖を見抜く眼力を生かしてベースコーチや代走として活躍した。2000年春には日本代表候補として千葉ロッテマリーンズのキャンプに参加するが、打撃の非力さが顕著であり、当時千葉ロッテの主軸打者だった初芝清が、引退後にその時の様子を「打撃練習で打球がケージから出ない」とラジオで解説したほどであった。<br />
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<font size="3"><strong>赤星憲広野村阪神時代</strong></font><br />
五輪後、当時阪神タイガース監督であった野村克也が直接スカウトとして視察していた社会人野球日本選手権大会で活躍。当初阪神スカウト陣はノーマークだったが、野村監督の鶴の一声で2000年のドラフト4位で阪神に入団。「ホームランバッターがいないなら足で稼ぐ。あの足は戦力になる」と監督から期待を寄せられる。この年まで阪神のセンターを守っていた新庄剛志のFA移籍が決まっていたため、「新庄さんの穴は僕が埋めます!」と豪語し、翌日のスポーツ新聞ではドラフト1位の藤田太陽の会見以上の話題となった。<br />
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背番号は2か26を希望していたが希望の背番号は与えられず、53番に決まった時は「俺はゴミ（53）か、誤算か」と嘆いたが、53盗塁達成を目標に設定し、盗塁王を狙うと気持ちを切り替えた。しかしキャンプイン時はまだ打撃面に問題が残っており、打球が内野の頭すら越えないほど深刻だった。後に濱中治には「あの赤星さんがプロで活躍できるなんて、失礼ながら全く思いませんでした」と言われたほどだったが、猛練習の末、5月にはレギュラーに定着。その後は 1番を打っていた上坂太一郎、3番を打っていた濱中、そして2番の赤星憲広の3人で平成の新少年隊（この名前は定着しなかった）を結成し、活躍。新人歴代4位となる39盗塁で、チームでは1956年の吉田義男以来45年振りとなる盗塁王に輝く。入団1年目でのシーズン最多盗塁達成は、チームでは呉昌征以来となる。この年、新人王も受賞し、盗塁王と新人王のダブル受賞は史上初の快挙であった。新庄が常連となっていたゴールデングラブ賞も受賞。<br />
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野村監督が俊足のタイガース選手を「F1セブン」と命名し、話題を呼んだ。赤星憲広はその「1号車」で、以下は藤本敦士（2号車）、沖原佳典（3号車）、上坂太一郎（4号車）、平下晃司（5号車）、松田匡司（6号車）、高波文一（7号車）。<br />
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<font size="3"><strong>赤星憲広星野阪神時代</strong></font><br />
2002年は好調なスタートを見せたが、自打球を右膝に当てて骨折し前半戦をほぼリタイア。78試合出場で26盗塁を記録するも、打率は2割5分台に低迷し成績を大きく下げた。しかし盗塁王を争っていた読売ジャイアンツの仁志敏久や中日ドラゴンズの荒木雅博なども揃って故障し規定打席不足だったことも幸いし、2年連続で盗塁王を獲得した。<br />
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2003年に金本知憲がFAで広島東洋カープから移籍。キャンプ中星野仙一監督は事あるごとに「赤星憲広は（金本、桧山進次郎、濱中に次ぐ）4番目の外野手」「打撃は赤星憲広より濱中の方が上。このままならばセンターは濱中だ」と発言し赤星憲広を発奮させたという。実際には赤星憲広のレギュラーは確定しており、田淵幸一ヘッドコーチの発案で「1番今岡・2番赤星・3番金本」の打順も早い段階で決まっていたというが、星野監督の目論見が当たったか、金本が赤星憲広の後の3番として盗塁をアシストしたこともあり、この年盗塁数を61盗塁と大幅に増やし、3年連続となる盗塁王に輝き、打率も初の3割を記録。さらに規定打席到達者の中で唯一守備率10割（年間失策0）の日本タイ記録を樹立し、2年ぶりのゴールデングラブ賞も受賞した。チーム18年ぶりの優勝が決まった9月 15日に行なわれた広島戦では、ライトオーバーのサヨナラ打を放った。またこの年はオールスターにも初出場を果たしている。しかし、福岡ダイエーホークスと対戦した日本シリーズ第1戦でフリオ・ズレータのサヨナラ安打にダイビングキャッチを試みて右手を負傷。それが遠因でシリーズでは不調に喘ぎ、メンバーに選ばれていたアテネオリンピックアジア予選も出場を辞退した。 <br />
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<font size="3"><strong>赤星憲広岡田阪神時代</strong></font><br />
2004年には自己新記録となる64盗塁（4年連続盗塁王）、2年連続の打率3割を記録する。この年の日米野球では7盗塁を決めるなど大活躍し、ボストン・レッドソックスのデイヴィッド・オルティズに「スーツケースに入れて連れて帰りたい」とまで言わしめた。しかし、チームはシーズン4位と不満の残る成績だった。<br />
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2005年のシーズンは4月21日の巨人戦で通算200盗塁を達成。4月度の月間MVPにも選出された。6月の交流戦で肋骨3本を折る重傷を負ったが、翌日の試合を休んただけで戦線に復帰。チームが中日の追い上げをかわして2年ぶりの優勝を飾るのに貢献した。10月1日のヤクルトスワローズ戦では福本豊以来2人目となる3年連続60盗塁で通算250盗塁を達成、さらにセ・リーグ史上初の5年連続盗塁王に輝いた。イチローを抜く年間単打165のプロ野球記録も達成したが、阪神の全試合終了後、首位打者ヤクルトの青木宣親がさらに記録を169まで更新した。<br />
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2006年は足の怪我の影響もあって盗塁数が激減。盗塁王の座をヤクルト・青木に譲ることになった上、規定打席到達者の中で本塁打・打点・長打率がリーグ最少を記録するなど打撃面の成績にも影響した。チームも中日に競り負けシーズン2位。この年オフに背番号変更を打診されるが、背番号に愛着を持つようになっていた赤星はこれを断った。<br />
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2007年は開幕から好調だったが、5月4日の広島戦（甲子園）でダイビングキャッチを試みた際、持病の頸椎椎間板ヘルニアを再発させ、一時期一軍登録を抹消された。この影響で、復帰後は1番を鳥谷敬に譲り、主に2番を打つこととなり、相手の先発に左腕の投手が予想される際など、濱中治らにスタメンを譲ることも多くなった。7月25日の対中日戦（ナゴヤドーム）で通算300盗塁達成、9月14日の対中日戦（甲子園）で通算1000本安打を達成した。盗塁王は逃したものの、2年ぶりの打率3割を記録した。本塁打は4年連続でリーグ最少だった。また、東出輝裕とともに、2年連続で規定打席に到達して本塁打がなかった（今久留主淳、日下隆、石原照夫、和田豊、村松有人、武藤孝司に続いて7・8人目）。<br />
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2008年9月22日、2089打席無本塁打のプロ野球新記録を達成した。結局、この年も本塁打は出ず3年連続で規定打席に達して本塁打0となった（東出とともにプロ野球新記録）。規定打席に達しての本塁打0を4度（2004、2006、2007、2008年）記録したのは久慈に続いて2人目。福地寿樹に 1盗塁の差で惜しくも3年ぶりの盗塁王はならなかったが、41盗塁を記録して通算350盗塁となり、吉田義男の持つ阪神の球団盗塁記録に並んだ。また、 2008年シーズン終了時点において、現役選手で通算300盗塁を達成しているのは石井琢朗（通算355盗塁）と赤星の2人だけである。 <br />
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<font size="3"><strong>赤星憲広プレースタイル</strong></font><br />
2005年6月に肋骨を骨折しながらすぐに戦線復帰したのは、前年、左手首を骨折していたにも拘らず試合に出場し続けた金本知憲の影響である。「金本さんの姿勢を見て、レギュラーとして試合に出続ける意味を知った」と話しており、2005年から金本同様、フルイニング出場への執念を燃やすようになった。ただし実際は6月12日の北海道日本ハムファイターズ戦で途中交代をしたため、シーズンフルイニング出場は未達成。<br />
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打球がレフト方向へ飛ぶことが多いので、特に2006年シーズンには相手チームが三塁線寄りの前進守備シフト（いわゆる「赤星シフト」）を敷く傾向があった。しかし、2007年からはバットやバッティングフォームを変更したことや、ライト方向への打球（進塁打）が増えたため、減少傾向にある。<br />
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本塁打を打つことは滅多にないが、2005年に打った1本は広い甲子園の右翼席に放ったものである。2007年シーズン終了時点で通算3本の本塁打を公式戦で放っているが、2001年は広島市民球場（左翼席）、2003年は明治神宮球場と狭い球場で放ったものだった。浜中と外野のレギュラー争いをしていた 2003年は、高松でのオープン戦でバックスクリーンに2連発を放つなど長打力をアピールしていた時期もある。なお、本塁打を放った3試合ともチームは敗戦している。<br />
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守備面では送球のコントロールがよく、投げるまでのスピードも速いため、補殺は多く、2005年と2006年には捕殺数外野手リーグトップを記録した。これは新庄剛志やアレックス・オチョアのような強肩外野手の場合は走者が進塁を自重するケースが多いが、赤星憲広の場合は逆に弱肩であるがゆえにランナーが果敢に次の塁を狙うということもある。また果敢にダイビングキャッチを試みるが、前述のようにダイビングによってケガを招くことが多い。<br />
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<font size="3"><strong>赤星憲広人物像</strong></font><br />
社会福祉活動に熱心であり、「ハンディキャップのある人でも球場に来て野球を観戦してほしい」との思いから、そのシーズンで記録した盗塁と同じ数の車椅子を贈るという活動を毎年行っている。2004年シーズンは、64盗塁にちなんで65台（うち1台は盗塁王のタイトルぶんで、電動リクライニング機能つき）の赤い車椅子を寄付しており、その功績が認められ、社会福祉活動に貢献したプロ野球選手に贈られるゴールデンスピリット賞を受賞した。ところが、2007 年4月に、寄贈した車椅子がインターネットオークションに出されるという事件が起き、本人は「どのような経緯で出品されたかはわからないが、人としてすることではない。許せない」とコメントしている。なお、抗議が殺到したため出品は取り下げられ取引は成立していない。 2005年には自ら理事長となり、少年野球チーム「レッドスターベースボールクラブ」を設立。<br />
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2006年より今岡誠のあとを引き継いでタイガースの選手会長に就任するが、この年5月、タイガースの親会社である阪神電気鉄道が、大株主の村上ファンドから取締役選任を要求されるという事件が起こる。これが通ればタイガースの先行きもどうなるか分からないという中、赤星憲広は「村上さんはファンの事を考えていないと思う。お金儲けの事しか考えていないような人に球団を持って欲しくない」と厳しく批判した。<br />
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選手会長としてファンサービスにも取り組んでいる一方で、「駅のホームでサインに応じている時に、背後から来た女性ファンにハサミで髪の毛を切られそうになった」「シーズン中、試合終了後に十数回も車で尾行された」といった自身の経験から、一部の過熱したファンにマナーを守るよう訴えてもいる。<br />
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以上のような真面目で熱血漢のイメージとは裏腹に、2005年のリーグ優勝祝勝会にレイザーラモンHGのコスチュームで登場するといった、ユーモアのある面も持ち合わせている。（なお、赤星がレイザーラモンHGのコスチュームを着て祝勝会に出ることはレイザーラモンHG本人の了承済み。）<br />
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これらフィールド内外での活躍により、今や阪神でも屈指の人気選手であるが、未だに独身である。そのためか特に女性からの人気が高く、自らの公式サイトで「最近不眠症に悩んでいる」と書いたところ、女性ファンから「添い寝してあげたい」というメッセージが多数寄せられたほどである。また、MBSラジオ「いざゆけ八木裕!」に出演した際、ファンからのプレゼントとして記名・押印がされた婚姻届が届いたことがあるとも語っている。<br />
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<font size="3"><strong>赤星憲広エピソード</strong></font><br />
2005年はサッカー好きの同僚である井川慶とともにガンバ大阪を応援していた。<br />
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星野仙一や田淵幸一、また年配の解説者などからは「あかぼし」と間違って呼ばれる。ちなみに、星野監督就任時には「レッド」と呼ばれていた。<br />
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公称の身長は170cmであるが、ファン感謝デーの時にFUJIWARAから「本当は169cmでは」と疑惑をかけられ、その場で測定された結果、実際に 169.5cmであることが判明する。このとき本人は「四捨五入で170cmの方が聞こえが良いじゃないですか」と0.5cmサバを読んでいたことを告白した。<br />
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高校時代に視力が0.3と近視になったためにコンタクトレンズを使っている。眼の健康には気を遣っているようで、カメラマンにあまりフラッシュを焚かないよう頼んでいるとのこと。雑誌「ナンバー」の「慧眼のアスリート」のコーナーでのインタビューで語った。<br />
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亜大時代に社会科の教員免許、JR東日本時代に車掌の資格を所得している。<br />
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彼の思い出に残る歌はZARDの「負けないで」である。彼自身、ZARDのファンであり、彼がセンバツに出場した際の入場曲でもあった。（2007年12月にサンテレビの熱血!タイガース党に出演した際にこのことについて語っていた。）<br />
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競馬好きを公言しており、自身のブログでも過去にG1レースの公開予想を載せていたことがある。また「サタうま!」にも03年と07年のオフに合計3回出演していて（03年は藪恵壱と同時出演）、放送翌日に行われるG1レースの予想を、玄人味溢れる鋭い切り口で公開するも、的中には至っていない。なお競馬にハマったきっかけは「サイレンススズカの迫力あるスピードに魅せられたから」と同番組内で語っている。<br />
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02年オフには「筋肉番付」に出演し、「また出場したい」という旨の発言をしていたが、翌03年オフは日本シリーズ出場の際に負った怪我の治療を優先させる必要があったことや、チーム優勝を受けて変わり行く環境の中で、自身のオフイベントに対する意識の変化が生じたことも相まって、以後の出演はない。<br />
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2008年5月24日の試合のヒーローインタビュー（対ソフトバンク戦、ヤフードーム）で観客に向かって突然ブチ切れて、「入ってねえんだよこの野郎！！」と発言した。これはファンが「聞こえねぇぞ！」としつこく野次られた事に対してで、敵地であるためヒーローインタビューは観客には聞こえない仕様だった。]]>
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    <category>赤星憲広</category>
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    <pubDate>Sat, 01 Aug 2009 05:20:58 GMT</pubDate>
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